2009年2月8日日曜日

前回Y‐PAC写真講評会

お題「street」について
ストリートに対しての定義を各々の中にあるものでそれを写真にするように集める
その事によりストリートに対する多面的な見方をメンバーで共有できれば、と思い今回のセレクションに参加した
今回の中に見受けられた「street」は
 左右を商業などの要素で飾られた壁面的なもので囲われた構成の、人の通る場所。 
 個人の段階を超える雑多な一面を含む空間。 
 人が流れること、またその人によって作られる場所。
といったようなものが挙がっていた
大半のものは写真から上の様な定義を明確に読み取ることは難しいと思ったが説明を聞いて「なるほど。」と思う
しかし写真だけで感じることができるのは少なかった
どうやらその伝わり方には写真の撮り方に差異があるようだ
写真一枚一枚を撮る時の態度というか心構えというか

大別して下の様に大別できたと思う
 何気なく撮るか
 記録として撮るか
 伝えるために撮るか
これらは性質として次のように異なる
 無意識的に撮ること=写真を撮る際に後で見るとき、誰が見るか、何を残すか等に関しての配慮を全く行わないものであり、読み取り幅が広い。
 記録として撮る=残すものは全体的・具体的なものであり、撮った本人が後で見返すためのもの。
 伝えるために撮る=残すものはその時によって異なり、伝える対象者が存在するため写るものが限定・抽象的になる。

あくまで傾向として思ったことだが
そうした上で今回のstreetに関しては何気・記録的なものが多かったように思う
様々なものを写真にした場合に
「これはstreetとしても読み取れるのではないか」
という後解釈によるものが多く「steet」としての作品としては意識が低かったのではないだろうか

まだまだ伸びしろが多く残っていることを痛感した
カメラを買う以前は意識もしなかったことだが、もしかしたらカメラを買う以前の問題ではないだろうか
写真としての撮り方で見え方によって大きく読み取り方も異なってくることを強く感じた

2009年2月1日日曜日

アーキテクチャと思考の場所

東京工業大学にて2009年1月28日に行われた公開シンポジウムが「アーキテクチャと思考の場所」である。
浅田彰+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司+東浩紀(司会)の6名による討論。
趣旨は、建築、社会設計、コンピュータシステムの3つの意味を併せ持つ「アーキテクチャ」というものについて、各分野の違いや類似性について考えながら、その現状と未来について考えるというもの。

濱野さんは、2000年以降に台頭してきたウェブサービスを「アーキテクチャ」の面から考察する自書『アーキテクチャの生態系』をまとめる形でプレゼンを行った。
その中で、建築物と比較する形で、ウェブのアーキテクチャには物理条件というものが存在せず、建築物の設計で必要となる「切断」、つまり物理限界がないということを繰り返し主張した。

宇野さんは、社会学サイドの「アーキテクチャ」についての最近の言論を簡単に整理した後、その問題点などを指摘した。
その中で僕が共感した点をあげると、「アーキテクチャ」を議論するうえで、その上に成立しているコミュニティのレベルの議論もまた同等の重要さがあるという点である。メタな議論が成立するのは同時にベタな議論も重要であるということである。

フリーディスカッションでは宇野・濱野・東の若い世代と、浅田・磯崎・宮台のベテラン世代との間の現在の社会状況について認識の差が目立った。
浅田・宮台は90年代に情報革命が起きたとはいえ、社会状況は変わっておらず、社会学の問題もそんなに変わってはいないと言う。
それに対し、濱野・東は社会学の状況が変わっていないことに同意しつ、変わっていなことこそ問題であり、新しく生まれた技術や思考の論理からその状況を打破すべきだと主張した。
前半は認識の差について、宮台VS東の様相を呈した。

ここで、磯崎さんの存在が効いたと思う。
磯崎さんは、ウェブに対する事前的な認識がないにも拘らず、議論の方向性をきわめて明確に示したと思う。
建築においては「切断」を伴うことで、メタフィジカルな「理論」をフィジカルな「建築」に転換するが、バーチャルにおいて「切断」を伴わないならば、それはどのようにリアルやフィジカルに対して影響を持つのかと問う。
そして、「切断」を伴わない「アーキテクチャ」が良い結果をもたらすことができるならば、アーキテクトはもはや不要であると述べた。

このシンポジウムで話されるべきことはこの点であったと思う。
メタな議論やバーチャルな構造がリアルな社会や生活にどう影響するのか、あるいはどう設計を行うことでより良いものとなるのか、その設計は建築や社会設計の方法とどう同じで、どう違うのか。

僕が聞き終えて思ったのは、バーチャルなウェブサービスにもリアルな建築にも「切断」は存在するということである。建築が物理条件により「切断」を伴うのは当然であるが、バーチャルにも物理条件は存在する。
ウェブはインターフェースの性能以上のことはできないし、無限に思えるサーバー容量や情報量も、時間とお金を考えれば、有限である。
むしろ、ウェブは設計者に「切断」を迫る頻度が高い。しかしその為「切断」に対する責任とリスクとコストが、建築に対して軽く、社会設計に対してはさらに軽い。
そのことが、情報技術の恐るべき進化スピードを与えているのであり、社会が驚くほど変わっていない原因であるのではないだろうか。
また、ウェブ上でのコミュニケーションや各種の行為も、僕にとってはフィジカルな行為である。
優れた建築が人にさまざまな経験を与えるのと同じく優れたウェブサービスはさまざまな経験を人にそれを与える。
そこにはバーチャルもリアルもない。

僕としては、今回のシンポジウムで気になっていたコンピュータ・社会学・建築が上手く整理でき、大成功だったと思う。
このシリーズのシンポジウムはぜひ続けて欲しい。