2009年5月7日木曜日

Stars of CCTV/Hard-FI

初めて投稿させていただきます。

ロンドン出身のロックバンドHard-FIのデビュー作。
彼らはワーキングクラスの出身で、メッセージ性の強い歌詞を書くところからもThe Clashと関連付けられて紹介されることの多いバンドでもある。
昔のロンドンパンクを髣髴とさせる荒削りの楽曲から、現代風にスタイリッシュにまとめられた楽曲まで、以外にも幅は狭くない。こういった点もクラッシュ譲りといえるのかもしれない。
近年、RadioheadやColdplayに代表されるようなインテリ風のバンドが幅を利かせるブリティッシュロックシーンの中にあって、楽でないワーキングクラスの日々を時に悲しく、時にひょうきんに切り取るというブリティッシュロックの原点のような姿勢を持つ彼らは少し異端にも感じられる。
きっと、まだピストルズやクラッシュが叫んだ理不尽は30年たっても消えていないのだ。そして、それがなくなる日は来ないのかもしれない。
寂しく響く鍵盤ハーモニカのチープな音に乗ってそんなことをぼんやり思い浮かべてしまう。

サッカーやロックといった”持たざる者の文化”であったものが、次第に世界を包むカルチャーへと発展していった過程には、きっと彼らが持つような圧倒的な生気と貪欲さが不可欠だったのだとも思う。
ともすれば歴史のメインラインから簡単にこぼれ落ちてしまうような大衆文化に対する視点を常に失いたくないとぼんやりと感じる。

2009年4月4日土曜日

グラン・ヴァカンス 廃園の天使〈1〉 /飛浩隆


飛浩隆・著 早川書房刊 2002年

最近読んで面白かったSF小説。あらすじ↓

ネットワークのどこかに存在する、仮想リ ゾート“数値海岸”の一区画“夏の区界”。南欧の港町を模したそこでは、人間の訪問が途絶えてから1000年もの あいだ、取り残されたAIたちが、同じ夏の一日をくりかえしていた。だが、「永遠に続く夏休み」は突如として終焉のときを迎える。謎のプログラム の大群が、街のすべてを無化しはじめたのである。こうして、わずかに生き残ったAIたちの、絶望にみちた一夜の攻防戦がはじまる。



この物語 の舞台である夏の区画は、陽光の下に輝くのどかな港町であり、そこに登場するAI達は、あたかも人間のようだ。
しかし、物語が進み世界が崩壊していくのに 合わせ、“夏の区画”の本当の姿が、視覚情報だけでなく、AI達の関係や感情までもが綿密にデザインされ、それが歯車のように噛み合って成立していた世界 の姿が浮かびあがってくる。

仮想空間、そこではデザインの領域が物質世界に比べはるかに拡大している。

もし現実に高性能の仮想空間が誕生したとしたら、どのように建築家はかかわっていくのだろうか。
読み終わった後はそういうことをぼんやりと考えていた。
 
夏 の区画の構造は明らかにされるが、物語の進行によって生じた多くの謎はこのシリーズの次巻以降へ持ち越される。
現在、2巻目となる「ラギッド・ガール」ま でが発売されており、こちらは現実世界、数値海岸の双方を舞台とした短編集となっている。
仮想現実の仕組みや仮想空間の現実世界での位置づけ等が語られ、 よりSF的な側面の強い作品で、こちらも刺激的で面白い。
しかしまだ完結しておらず、次巻の発売が非常に待ち遠しい。

2009年3月27日金曜日

ゆれる

脚本・監督 西川美和
オダギリジョー
香川照之
真木よう子
ゆれる描写がバリエーション豊富で面白い
水面、車、風船、橋、画面etc…
一つの橋を軸に物語と登場人物の心情がゆれていく
そのなかで心が振り切れた時に物語は場面を変える
最後のオチの様なものは欲しくなかった
最後に見る者の心を一番ゆらして終わらせたいのはわかるけれども後味が悪い
香川照之の位置にくる人間が一番苦手、見るのが
オダギリの位置の人間は嫌い
でも香川照之もオダギリジョーも嫌いじゃない。むしろ好き。

全体的には綺麗な印象の物語。

2009年3月19日木曜日

ノルウェイの森/村上春樹

村上春樹・著 講談社 2004年

旅行中に読み始めて読み終わった。読んだのは文庫版のほう。

ストーリーは「僕」とその周りのごく少数の人々の出来事をつづったもの。
主人公を含めた登場人物の多くが何かしらの欠陥を抱えている。
僕の視点から語られる淡々とした物語。
主人公が様々な喪失と再生を繰り返す。

私が読んで得られた感想は、人は不完全で一人では生きられないというシンプルなこと。
常に不完全な自分に喪失感を感じながら生き、他人と補完しながら生きているということ。

村上春樹はまだそんなに多く読んだことがないけれども、読後感が独特。
読み終わったときの達成感のようなものはない。
読んでいるときは、読んでいることが自然になる。
そして、読み終えてからも、特に読み直したいと思わない。
でも、また読み出したとしたら、それはすごく自然に読めるのだと思う。

息をするように読める作品。

2009年2月8日日曜日

前回Y‐PAC写真講評会

お題「street」について
ストリートに対しての定義を各々の中にあるものでそれを写真にするように集める
その事によりストリートに対する多面的な見方をメンバーで共有できれば、と思い今回のセレクションに参加した
今回の中に見受けられた「street」は
 左右を商業などの要素で飾られた壁面的なもので囲われた構成の、人の通る場所。 
 個人の段階を超える雑多な一面を含む空間。 
 人が流れること、またその人によって作られる場所。
といったようなものが挙がっていた
大半のものは写真から上の様な定義を明確に読み取ることは難しいと思ったが説明を聞いて「なるほど。」と思う
しかし写真だけで感じることができるのは少なかった
どうやらその伝わり方には写真の撮り方に差異があるようだ
写真一枚一枚を撮る時の態度というか心構えというか

大別して下の様に大別できたと思う
 何気なく撮るか
 記録として撮るか
 伝えるために撮るか
これらは性質として次のように異なる
 無意識的に撮ること=写真を撮る際に後で見るとき、誰が見るか、何を残すか等に関しての配慮を全く行わないものであり、読み取り幅が広い。
 記録として撮る=残すものは全体的・具体的なものであり、撮った本人が後で見返すためのもの。
 伝えるために撮る=残すものはその時によって異なり、伝える対象者が存在するため写るものが限定・抽象的になる。

あくまで傾向として思ったことだが
そうした上で今回のstreetに関しては何気・記録的なものが多かったように思う
様々なものを写真にした場合に
「これはstreetとしても読み取れるのではないか」
という後解釈によるものが多く「steet」としての作品としては意識が低かったのではないだろうか

まだまだ伸びしろが多く残っていることを痛感した
カメラを買う以前は意識もしなかったことだが、もしかしたらカメラを買う以前の問題ではないだろうか
写真としての撮り方で見え方によって大きく読み取り方も異なってくることを強く感じた

2009年2月1日日曜日

アーキテクチャと思考の場所

東京工業大学にて2009年1月28日に行われた公開シンポジウムが「アーキテクチャと思考の場所」である。
浅田彰+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司+東浩紀(司会)の6名による討論。
趣旨は、建築、社会設計、コンピュータシステムの3つの意味を併せ持つ「アーキテクチャ」というものについて、各分野の違いや類似性について考えながら、その現状と未来について考えるというもの。

濱野さんは、2000年以降に台頭してきたウェブサービスを「アーキテクチャ」の面から考察する自書『アーキテクチャの生態系』をまとめる形でプレゼンを行った。
その中で、建築物と比較する形で、ウェブのアーキテクチャには物理条件というものが存在せず、建築物の設計で必要となる「切断」、つまり物理限界がないということを繰り返し主張した。

宇野さんは、社会学サイドの「アーキテクチャ」についての最近の言論を簡単に整理した後、その問題点などを指摘した。
その中で僕が共感した点をあげると、「アーキテクチャ」を議論するうえで、その上に成立しているコミュニティのレベルの議論もまた同等の重要さがあるという点である。メタな議論が成立するのは同時にベタな議論も重要であるということである。

フリーディスカッションでは宇野・濱野・東の若い世代と、浅田・磯崎・宮台のベテラン世代との間の現在の社会状況について認識の差が目立った。
浅田・宮台は90年代に情報革命が起きたとはいえ、社会状況は変わっておらず、社会学の問題もそんなに変わってはいないと言う。
それに対し、濱野・東は社会学の状況が変わっていないことに同意しつ、変わっていなことこそ問題であり、新しく生まれた技術や思考の論理からその状況を打破すべきだと主張した。
前半は認識の差について、宮台VS東の様相を呈した。

ここで、磯崎さんの存在が効いたと思う。
磯崎さんは、ウェブに対する事前的な認識がないにも拘らず、議論の方向性をきわめて明確に示したと思う。
建築においては「切断」を伴うことで、メタフィジカルな「理論」をフィジカルな「建築」に転換するが、バーチャルにおいて「切断」を伴わないならば、それはどのようにリアルやフィジカルに対して影響を持つのかと問う。
そして、「切断」を伴わない「アーキテクチャ」が良い結果をもたらすことができるならば、アーキテクトはもはや不要であると述べた。

このシンポジウムで話されるべきことはこの点であったと思う。
メタな議論やバーチャルな構造がリアルな社会や生活にどう影響するのか、あるいはどう設計を行うことでより良いものとなるのか、その設計は建築や社会設計の方法とどう同じで、どう違うのか。

僕が聞き終えて思ったのは、バーチャルなウェブサービスにもリアルな建築にも「切断」は存在するということである。建築が物理条件により「切断」を伴うのは当然であるが、バーチャルにも物理条件は存在する。
ウェブはインターフェースの性能以上のことはできないし、無限に思えるサーバー容量や情報量も、時間とお金を考えれば、有限である。
むしろ、ウェブは設計者に「切断」を迫る頻度が高い。しかしその為「切断」に対する責任とリスクとコストが、建築に対して軽く、社会設計に対してはさらに軽い。
そのことが、情報技術の恐るべき進化スピードを与えているのであり、社会が驚くほど変わっていない原因であるのではないだろうか。
また、ウェブ上でのコミュニケーションや各種の行為も、僕にとってはフィジカルな行為である。
優れた建築が人にさまざまな経験を与えるのと同じく優れたウェブサービスはさまざまな経験を人にそれを与える。
そこにはバーチャルもリアルもない。

僕としては、今回のシンポジウムで気になっていたコンピュータ・社会学・建築が上手く整理でき、大成功だったと思う。
このシリーズのシンポジウムはぜひ続けて欲しい。

2009年1月7日水曜日

半島を出よ/村上龍


村上龍・著 幻冬舎刊 2005年

2011年の日本を舞台とした村上龍の長編小説である。
この時代の日本は政治・経済ともに破綻し、国際社会からも孤立していた。そんななか、北朝鮮の特殊戦部隊の精鋭9名が秘密裏に福岡に上陸し、プロ野球の試合が行われている福岡ドームを占拠、その後北朝鮮からの本隊と合流し、福岡の分離独立を目指して行動する。

著者・村上龍の膨大な量のリサーチと数十人に及ぶという脱北者へのインタビューによって支えられたリアリティに、とにかく引き込まれる。

しかし、この作品は現代の都市の弱点を露呈し、危機管理意識
の薄弱な我々に対する警句でもある。
たった9名で制圧でき、満員の観客がそのまま人質になる福岡ドーム。
病院を背にすることで大規模攻撃ができないようにさせる野営地の広場。
特殊戦部隊の本拠地にもなり、地下駐車場が重犯罪人の監獄にもなる超高層リゾートホテル。
市民の憩いの場として開かれているが故に最悪の戦場となる大濠公園。

そしてこの福岡占拠という大事件に終止符を打つ最大の破壊兵器もまた、建築である。

これは村上龍による現代都市・建築論である。

yoichi