脚本・監督 西川美和
オダギリジョー
香川照之
真木よう子
ゆれる描写がバリエーション豊富で面白い
水面、車、風船、橋、画面etc…
一つの橋を軸に物語と登場人物の心情がゆれていく
そのなかで心が振り切れた時に物語は場面を変える
最後のオチの様なものは欲しくなかった
最後に見る者の心を一番ゆらして終わらせたいのはわかるけれども後味が悪い
香川照之の位置にくる人間が一番苦手、見るのが
オダギリの位置の人間は嫌い
でも香川照之もオダギリジョーも嫌いじゃない。むしろ好き。
全体的には綺麗な印象の物語。
2009年3月19日木曜日
ノルウェイの森/村上春樹
村上春樹・著 講談社 2004年
旅行中に読み始めて読み終わった。読んだのは文庫版のほう。
ストーリーは「僕」とその周りのごく少数の人々の出来事をつづったもの。
主人公を含めた登場人物の多くが何かしらの欠陥を抱えている。
僕の視点から語られる淡々とした物語。
主人公が様々な喪失と再生を繰り返す。
私が読んで得られた感想は、人は不完全で一人では生きられないというシンプルなこと。
常に不完全な自分に喪失感を感じながら生き、他人と補完しながら生きているということ。
村上春樹はまだそんなに多く読んだことがないけれども、読後感が独特。
読み終わったときの達成感のようなものはない。
読んでいるときは、読んでいることが自然になる。
そして、読み終えてからも、特に読み直したいと思わない。
でも、また読み出したとしたら、それはすごく自然に読めるのだと思う。
息をするように読める作品。
旅行中に読み始めて読み終わった。読んだのは文庫版のほう。
ストーリーは「僕」とその周りのごく少数の人々の出来事をつづったもの。
主人公を含めた登場人物の多くが何かしらの欠陥を抱えている。
僕の視点から語られる淡々とした物語。
主人公が様々な喪失と再生を繰り返す。
私が読んで得られた感想は、人は不完全で一人では生きられないというシンプルなこと。
常に不完全な自分に喪失感を感じながら生き、他人と補完しながら生きているということ。
村上春樹はまだそんなに多く読んだことがないけれども、読後感が独特。
読み終わったときの達成感のようなものはない。
読んでいるときは、読んでいることが自然になる。
そして、読み終えてからも、特に読み直したいと思わない。
でも、また読み出したとしたら、それはすごく自然に読めるのだと思う。
息をするように読める作品。
2009年2月8日日曜日
前回Y‐PAC写真講評会
お題「street」について
ストリートに対しての定義を各々の中にあるものでそれを写真にするように集める
その事によりストリートに対する多面的な見方をメンバーで共有できれば、と思い今回のセレクションに参加した
今回の中に見受けられた「street」は
左右を商業などの要素で飾られた壁面的なもので囲われた構成の、人の通る場所。
個人の段階を超える雑多な一面を含む空間。
人が流れること、またその人によって作られる場所。
といったようなものが挙がっていた
大半のものは写真から上の様な定義を明確に読み取ることは難しいと思ったが説明を聞いて「なるほど。」と思う
しかし写真だけで感じることができるのは少なかった
どうやらその伝わり方には写真の撮り方に差異があるようだ
写真一枚一枚を撮る時の態度というか心構えというか
大別して下の様に大別できたと思う
何気なく撮るか
記録として撮るか
伝えるために撮るか
これらは性質として次のように異なる
無意識的に撮ること=写真を撮る際に後で見るとき、誰が見るか、何を残すか等に関しての配慮を全く行わないものであり、読み取り幅が広い。
記録として撮る=残すものは全体的・具体的なものであり、撮った本人が後で見返すためのもの。
伝えるために撮る=残すものはその時によって異なり、伝える対象者が存在するため写るものが限定・抽象的になる。
あくまで傾向として思ったことだが
そうした上で今回のstreetに関しては何気・記録的なものが多かったように思う
様々なものを写真にした場合に
「これはstreetとしても読み取れるのではないか」
という後解釈によるものが多く「steet」としての作品としては意識が低かったのではないだろうか
まだまだ伸びしろが多く残っていることを痛感した
カメラを買う以前は意識もしなかったことだが、もしかしたらカメラを買う以前の問題ではないだろうか
写真としての撮り方で見え方によって大きく読み取り方も異なってくることを強く感じた
ストリートに対しての定義を各々の中にあるものでそれを写真にするように集める
その事によりストリートに対する多面的な見方をメンバーで共有できれば、と思い今回のセレクションに参加した
今回の中に見受けられた「street」は
左右を商業などの要素で飾られた壁面的なもので囲われた構成の、人の通る場所。
個人の段階を超える雑多な一面を含む空間。
人が流れること、またその人によって作られる場所。
といったようなものが挙がっていた
大半のものは写真から上の様な定義を明確に読み取ることは難しいと思ったが説明を聞いて「なるほど。」と思う
しかし写真だけで感じることができるのは少なかった
どうやらその伝わり方には写真の撮り方に差異があるようだ
写真一枚一枚を撮る時の態度というか心構えというか
大別して下の様に大別できたと思う
何気なく撮るか
記録として撮るか
伝えるために撮るか
これらは性質として次のように異なる
無意識的に撮ること=写真を撮る際に後で見るとき、誰が見るか、何を残すか等に関しての配慮を全く行わないものであり、読み取り幅が広い。
記録として撮る=残すものは全体的・具体的なものであり、撮った本人が後で見返すためのもの。
伝えるために撮る=残すものはその時によって異なり、伝える対象者が存在するため写るものが限定・抽象的になる。
あくまで傾向として思ったことだが
そうした上で今回のstreetに関しては何気・記録的なものが多かったように思う
様々なものを写真にした場合に
「これはstreetとしても読み取れるのではないか」
という後解釈によるものが多く「steet」としての作品としては意識が低かったのではないだろうか
まだまだ伸びしろが多く残っていることを痛感した
カメラを買う以前は意識もしなかったことだが、もしかしたらカメラを買う以前の問題ではないだろうか
写真としての撮り方で見え方によって大きく読み取り方も異なってくることを強く感じた
2009年2月1日日曜日
アーキテクチャと思考の場所
東京工業大学にて2009年1月28日に行われた公開シンポジウムが「アーキテクチャと思考の場所」である。
浅田彰+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司+東浩紀(司会)の6名による討論。
趣旨は、建築、社会設計、コンピュータシステムの3つの意味を併せ持つ「アーキテクチャ」というものについて、各分野の違いや類似性について考えながら、その現状と未来について考えるというもの。
濱野さんは、2000年以降に台頭してきたウェブサービスを「アーキテクチャ」の面から考察する自書『アーキテクチャの生態系』をまとめる形でプレゼンを行った。
その中で、建築物と比較する形で、ウェブのアーキテクチャには物理条件というものが存在せず、建築物の設計で必要となる「切断」、つまり物理限界がないということを繰り返し主張した。
宇野さんは、社会学サイドの「アーキテクチャ」についての最近の言論を簡単に整理した後、その問題点などを指摘した。
その中で僕が共感した点をあげると、「アーキテクチャ」を議論するうえで、その上に成立しているコミュニティのレベルの議論もまた同等の重要さがあるという点である。メタな議論が成立するのは同時にベタな議論も重要であるということである。
フリーディスカッションでは宇野・濱野・東の若い世代と、浅田・磯崎・宮台のベテラン世代との間の現在の社会状況について認識の差が目立った。
浅田・宮台は90年代に情報革命が起きたとはいえ、社会状況は変わっておらず、社会学の問題もそんなに変わってはいないと言う。
それに対し、濱野・東は社会学の状況が変わっていないことに同意しつ、変わっていなことこそ問題であり、新しく生まれた技術や思考の論理からその状況を打破すべきだと主張した。
前半は認識の差について、宮台VS東の様相を呈した。
ここで、磯崎さんの存在が効いたと思う。
磯崎さんは、ウェブに対する事前的な認識がないにも拘らず、議論の方向性をきわめて明確に示したと思う。
建築においては「切断」を伴うことで、メタフィジカルな「理論」をフィジカルな「建築」に転換するが、バーチャルにおいて「切断」を伴わないならば、それはどのようにリアルやフィジカルに対して影響を持つのかと問う。
そして、「切断」を伴わない「アーキテクチャ」が良い結果をもたらすことができるならば、アーキテクトはもはや不要であると述べた。
このシンポジウムで話されるべきことはこの点であったと思う。
メタな議論やバーチャルな構造がリアルな社会や生活にどう影響するのか、あるいはどう設計を行うことでより良いものとなるのか、その設計は建築や社会設計の方法とどう同じで、どう違うのか。
僕が聞き終えて思ったのは、バーチャルなウェブサービスにもリアルな建築にも「切断」は存在するということである。建築が物理条件により「切断」を伴うのは当然であるが、バーチャルにも物理条件は存在する。
ウェブはインターフェースの性能以上のことはできないし、無限に思えるサーバー容量や情報量も、時間とお金を考えれば、有限である。
むしろ、ウェブは設計者に「切断」を迫る頻度が高い。しかしその為「切断」に対する責任とリスクとコストが、建築に対して軽く、社会設計に対してはさらに軽い。
そのことが、情報技術の恐るべき進化スピードを与えているのであり、社会が驚くほど変わっていない原因であるのではないだろうか。
また、ウェブ上でのコミュニケーションや各種の行為も、僕にとってはフィジカルな行為である。
優れた建築が人にさまざまな経験を与えるのと同じく優れたウェブサービスはさまざまな経験を人にそれを与える。
そこにはバーチャルもリアルもない。
僕としては、今回のシンポジウムで気になっていたコンピュータ・社会学・建築が上手く整理でき、大成功だったと思う。
このシリーズのシンポジウムはぜひ続けて欲しい。
浅田彰+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司+東浩紀(司会)の6名による討論。
趣旨は、建築、社会設計、コンピュータシステムの3つの意味を併せ持つ「アーキテクチャ」というものについて、各分野の違いや類似性について考えながら、その現状と未来について考えるというもの。
濱野さんは、2000年以降に台頭してきたウェブサービスを「アーキテクチャ」の面から考察する自書『アーキテクチャの生態系』をまとめる形でプレゼンを行った。
その中で、建築物と比較する形で、ウェブのアーキテクチャには物理条件というものが存在せず、建築物の設計で必要となる「切断」、つまり物理限界がないということを繰り返し主張した。
宇野さんは、社会学サイドの「アーキテクチャ」についての最近の言論を簡単に整理した後、その問題点などを指摘した。
その中で僕が共感した点をあげると、「アーキテクチャ」を議論するうえで、その上に成立しているコミュニティのレベルの議論もまた同等の重要さがあるという点である。メタな議論が成立するのは同時にベタな議論も重要であるということである。
フリーディスカッションでは宇野・濱野・東の若い世代と、浅田・磯崎・宮台のベテラン世代との間の現在の社会状況について認識の差が目立った。
浅田・宮台は90年代に情報革命が起きたとはいえ、社会状況は変わっておらず、社会学の問題もそんなに変わってはいないと言う。
それに対し、濱野・東は社会学の状況が変わっていないことに同意しつ、変わっていなことこそ問題であり、新しく生まれた技術や思考の論理からその状況を打破すべきだと主張した。
前半は認識の差について、宮台VS東の様相を呈した。
ここで、磯崎さんの存在が効いたと思う。
磯崎さんは、ウェブに対する事前的な認識がないにも拘らず、議論の方向性をきわめて明確に示したと思う。
建築においては「切断」を伴うことで、メタフィジカルな「理論」をフィジカルな「建築」に転換するが、バーチャルにおいて「切断」を伴わないならば、それはどのようにリアルやフィジカルに対して影響を持つのかと問う。
そして、「切断」を伴わない「アーキテクチャ」が良い結果をもたらすことができるならば、アーキテクトはもはや不要であると述べた。
このシンポジウムで話されるべきことはこの点であったと思う。
メタな議論やバーチャルな構造がリアルな社会や生活にどう影響するのか、あるいはどう設計を行うことでより良いものとなるのか、その設計は建築や社会設計の方法とどう同じで、どう違うのか。
僕が聞き終えて思ったのは、バーチャルなウェブサービスにもリアルな建築にも「切断」は存在するということである。建築が物理条件により「切断」を伴うのは当然であるが、バーチャルにも物理条件は存在する。
ウェブはインターフェースの性能以上のことはできないし、無限に思えるサーバー容量や情報量も、時間とお金を考えれば、有限である。
むしろ、ウェブは設計者に「切断」を迫る頻度が高い。しかしその為「切断」に対する責任とリスクとコストが、建築に対して軽く、社会設計に対してはさらに軽い。
そのことが、情報技術の恐るべき進化スピードを与えているのであり、社会が驚くほど変わっていない原因であるのではないだろうか。
また、ウェブ上でのコミュニケーションや各種の行為も、僕にとってはフィジカルな行為である。
優れた建築が人にさまざまな経験を与えるのと同じく優れたウェブサービスはさまざまな経験を人にそれを与える。
そこにはバーチャルもリアルもない。
僕としては、今回のシンポジウムで気になっていたコンピュータ・社会学・建築が上手く整理でき、大成功だったと思う。
このシリーズのシンポジウムはぜひ続けて欲しい。
2009年1月7日水曜日
半島を出よ/村上龍

村上龍・著 幻冬舎刊 2005年
2011年の日本を舞台とした村上龍の長編小説である。
この時代の日本は政治・経済ともに破綻し、国際社会からも孤立していた。そんななか、北朝鮮の特殊戦部隊の精鋭9名が秘密裏に福岡に上陸し、プロ野球の試合が行われている福岡ドームを占拠、その後北朝鮮からの本隊と合流し、福岡の分離独立を目指して行動する。
著者・村上龍の膨大な量のリサーチと数十人に及ぶという脱北者へのインタビューによって支えられたリアリティに、とにかく引き込まれる。
しかし、この作品は現代の都市の弱点を露呈し、危機管理意識
の薄弱な我々に対する警句でもある。
たった9名で制圧でき、満員の観客がそのまま人質になる福岡ドーム。
病院を背にすることで大規模攻撃ができないようにさせる野営地の広場。
特殊戦部隊の本拠地にもなり、地下駐車場が重犯罪人の監獄にもなる超高層リゾートホテル。
市民の憩いの場として開かれているが故に最悪の戦場となる大濠公園。
そしてこの福岡占拠という大事件に終止符を打つ最大の破壊兵器もまた、建築である。
これは村上龍による現代都市・建築論である。
yoichi
2008年12月20日土曜日
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 2.0

「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 2.0」は1995年に劇場公開された劇場版アニメ「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」の完全リニューアル版である。監督は押井守。
昨日予約していたDVDが届いたので、早速見てみた。
2.0の名が示すとおり、今回のリニューアルはヴァージョンアップと位置づけられている。
うちのDVD鑑賞環境はサラウンド対応していないため、サウンドについては何も言えないが、映像とセリフのヴァージョンアップについては十分に堪能できた。
今回の2.0でもっとも大きい変更は「人形使い」の声優が榊原良子に変更されたことである。
もとのヴァージョンでは家弓家正が演じていた「人形使い」が男性から女性の声に替わったことで、
物語の意味合いは大きく変わったことになる。
文学や映画、音楽などはヴァージョンアップが可能である。
ヴァージョンアップはオリジナル、または旧ヴァージョンとの比較ができて意味があると思う。
いまのネット上にあふれる情報は書き換えが簡単すぎるがために、オリジナルが残らない。
オリジナルを作るということが、今という時代に可能なのだろうかと考えてしまった。
2008年12月19日金曜日
交響詩篇エウレカセブン
交響詩篇エウレカセブンは2005年4月から翌2006年4月までTBS系列で50話放送されたTVアニメである。原作および制作はBONSE。監督は京田知己。基本的なデータはこちらからどうぞ。
ストーリーを簡単に話すと、冴えない毎日を送るレントン少年の家に、ある日ロボットが落ちてくる。
その、ロボットに乗っていたのはエウレカという美少女で…といった感じの話で、よくある「ボーイミーツガール」的なストーリー展開で物語がはじまる。
最終的にはレントンとエウレカを中心にした一般的にいえば狭義のセカイ系のような話に発展してゆく。
しかし、私がこの作品で注目したいのは、「未知のものを受け入れる」という視点である。
詳しくは書かないが、レントンとエウレカはある根本的な違いを持って生まれてきており、レントンはある時それに気づく。
「わからない、知らないものは怖いもの。それはみんな一緒。」と第09話ペーパームーン・シャインでティプトリーが言う。しかし、レントンはエウレカを分かりたいと、知りたいと思う。最終的には、レントンはエウレカとの根本的な、決定的な違いを飛び越えていく。「アイ キャン フライ!」と。
他者はそもそも自分とは違うものであり、多様性を容認することがポストモダンな社会の前提である。
しかし、「わからない、知らないものは怖いもの。それはみんな一緒。」であり、多様なものは相互に交わらず、自らと同じものを求めて固まっていく。あるいは、違うものを排除し、傷つけている。
レントンは、軽々とではなく、泥まみれになりながら、傷つきながら、それでも違いを飛び越していく。
50話を見終わったときに、必ず何かを飛び越したくなる。
交響詩篇エウレカセブンはそういう作品である。
ストーリーを簡単に話すと、冴えない毎日を送るレントン少年の家に、ある日ロボットが落ちてくる。
その、ロボットに乗っていたのはエウレカという美少女で…といった感じの話で、よくある「ボーイミーツガール」的なストーリー展開で物語がはじまる。
最終的にはレントンとエウレカを中心にした一般的にいえば狭義のセカイ系のような話に発展してゆく。
しかし、私がこの作品で注目したいのは、「未知のものを受け入れる」という視点である。
詳しくは書かないが、レントンとエウレカはある根本的な違いを持って生まれてきており、レントンはある時それに気づく。
「わからない、知らないものは怖いもの。それはみんな一緒。」と第09話ペーパームーン・シャインでティプトリーが言う。しかし、レントンはエウレカを分かりたいと、知りたいと思う。最終的には、レントンはエウレカとの根本的な、決定的な違いを飛び越えていく。「アイ キャン フライ!」と。
他者はそもそも自分とは違うものであり、多様性を容認することがポストモダンな社会の前提である。
しかし、「わからない、知らないものは怖いもの。それはみんな一緒。」であり、多様なものは相互に交わらず、自らと同じものを求めて固まっていく。あるいは、違うものを排除し、傷つけている。
レントンは、軽々とではなく、泥まみれになりながら、傷つきながら、それでも違いを飛び越していく。
50話を見終わったときに、必ず何かを飛び越したくなる。
交響詩篇エウレカセブンはそういう作品である。
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