ヨコハマ国際映像祭CREAM2009で上映された作曲家・安野太郎氏の映像作品である。いや、これは音楽作品である、というべきなのか?
11月28日に新港ピアで発表会という形でライブが行われた。映像祭という、各作家の作品が広い会場に分散的に展示されている中で、この作品をこういう上映形式で観れたことはとても幸運なことだった。
音楽映画第九番という作品について、僕自身の言葉で改めてどんな作品だったかを説明してみたい。
まず音楽映画という音楽は、ひとつの簡単なルールに従ってつくられている。それは演奏者が「映像に映るものを読み上げる」というルールである。
第九番では演奏者は16人おり、画面も16分割されている。奏者は画面内の自分に割り当てられた区画を担当する。スクリーンにはひとつの大きな映像が流れることもあれば16分割分の小さな映像が画面のあちこちに流れることもある。画面上には読み取り棒と作曲者が呼ぶ、CGでつくられた緑の棒が行き来する。奏者はその棒が通過するオブジェクトの名前を読み上げるというわけだ。
映画は海の映像から始まる。よく晴れた空の下、大きなコンテナ船がゆっくりと画面を横切る。そこに緑の読み取り棒が現れて一人の奏者がつぶやき始める。「ふね」「しろいコンテナ」「なみ」「ふねのかげ」というように。
そうしてひとりまたひとりと奏者の数が増えていき、いろいろな声のトーンやつぶやくスピード、声の大きさ等が入り交じるようになり、「映像」が「楽譜」のように機能し始める。(16人の奏者の年齢も性別もみなバラバラであり、当然声もみな違う。これが重要である)
作品の中盤までは映像の分割度合いや読み取り棒のスピードなど、音楽映画とはどんなものかいろいろなパターンが試されると同時に観客にシステムの説明をしていく感じで、それは音楽というよりは統制のとれたつぶやきや整然とした雑踏のざわめきのように聞こえる。
しかし大きな影の映像に4人の奏者が同時に「かーーげ」と発声することでそこから一気にメロディへとシフトしてゆく。それはまさに和音そのものであり、合唱ならば当たり前の奏法なのだが、観客はここで改めて映像から音楽が生まれることを知るのである。
少し強引かもしれないが、この作品を今建築界や思想界(の一部)で議論されているテーマに引きつけて考えたい。それはアーキテクチャとコンテンツという考え方である。
それぞれの語義についてはここでは割愛するが、この音楽映画第九番という作品での作曲家・安野太郎氏の役割は音楽映画の演奏方法というアーキテクチャの設計者であり、映像の恣意的な並べ替え(=音楽の楽譜を書く行為)によってコンテンツを作り出す作家でもある。
人間をアルゴリズミックに扱い、音楽という芸術作品を作り出す。それはいまtwitterの建築/思想クラスタでしきりに議論されているアーキテクチャ派/コンテンツ派を架橋する良い実例とも呼べるだろう。
人間をスキャナのように扱い、ルールにしたがって発声させるということは、文字で読むと非人間的な行為のようで、そんなものは芸術作品と呼べないと拒否反応を示す人もいるかもしれない。だが、実際に目の前で生身の人間が高らかに声を上げるライブを見るとそんな考えは吹き飛ぶ。
声を出すのが人間である以上、そこには声の違いはもちろんだが、オブジェクトの認識の違いも生じる。視覚情報を自分の知っている音声情報に変換するには個人の経験や知識が大いに影響する。横浜のインターコンチネンタルホテルを知らない人が読み取れば「しろいビル」になってしまうかもしれないし、ポニーを「ちいさいうま」と読み取る人がいるかもしれない。そこには個々の視点と認識の差という冗長性があり、それがこの作品に面白みを与えていると感じた。
実際にはかなりの練習を重ねているそうなので、そのリダンダンシーを安野氏がどこまで認めているのかは分からない。しかし情報のインプット側だけでなく、発声の方言によるイントネーションや声の高さ、大きさなどアウトプット側にも多様化する要素が無数に含まれている。
この作品では「視覚→脳→声帯」という一連の反応経路そのものが楽器であるといえるかもしれない。