2010年10月5日火曜日

Archi-TV2010

10月2日から3日にかけて、建築学生が主体となって建築会館で行われた26時間耐久ワークショップ、Archi-TV2010に当日スタッフとして参加したのでその感想を。
Archi-TV2010には自分だけでなく、Archi-TV副代表を務めた石塚をはじめ、Y-pacから多くのメンバーが参加した。

Archi-TV2010では建築家を招いた講演会や討論会、仮設建築の施工、即日設計などが行われたが、例年にない初の試みとしてUSTREAMを用いたネット配信に挑戦した(自分はその配信班だった)。
配信を行うことで一つの場所で行われている活動や議論を拡散し、それをテクノロジーを通して会場にフィードバックすることが意図された。
はっきり言ってこの試みが会期中にうまく機能したとは言えない。配信は線的で時間も決められており、その時間内に外部からの意見をフィードバックさせる仕組みをうまくつくれていなかった。
そして、視聴者からのコメントも恣意性に委ねられており、視聴者が参加者に変わることも難しかった。
だがイベントが終わった後でもネット上でのスタッフの議論や蓄積された情報の整理が進行中であり、成果物が期待される。

色々な問題点もあるわけだが、実際に配信を担当した素直な感想を言えば非常に楽しかった。特に深夜帯が。
深夜帯の配信プログラムは構造班の解説や座談会、インタビュー、スカイプ対談など短時間のコンテンツで構成され、それを立て続けに出していくことで論点の明確な、飽きのきにくい配信ができたと思う。
また、土日をまたいでいたせいもあり、視聴者数はこの時間帯が最も多く、コメントも多かった。自分は深夜特有の奇妙なテンションの中にあり、画面越しの人達もきっとそうだっただろう。
USTの視聴者達は数であるとともに、時折顔をみせる朧気な輪郭をもった存在だが、その間で高揚感を共有できていた気がした。
そして早朝、大学で同期だった友人がふらっと現れた。彼いわく、「面白くて結局寝ずにUST観ちゃって来ちゃったよ~」とのこと。
意識が朦朧とするなかでこの言葉は非常に嬉しい。

今回のArchi-TVの改善すべき点を自分なりに挙げるとすれば、番組外の設計だろう。
深夜帯では多くのコンテンツを配信したがそのそれぞれについてもっと深く話が聞きたい、という人は多かったのではないか。自分は一昨年もArchi-TVに参加したが、その際は時間に余裕があり、深夜帯に知らない人々と話ができ、その時間が一番印象に残っている。
今回は深夜帯に何の企画にも携わっていない人は少なかったが、配信という形で多くのネタが放出されており、建築会館の中庭で話を楽しむには絶好の機会だったはずだ。USTを観て実際に来てくれた人もいた。
確かにUSTの視聴者は関東在住であっても交通インフラが停止した深夜では訪れることは難しいだろう。その行きたくても行けない感覚があの高揚感をつくっている気もする。
その気分を事前に備えた人を巻き込み、深夜の会場で爆発させるには様々な仕掛けが必要だろうが、今回のUST配信によって来年の布石を打つことができたかもしれない。
来年のArchi-TVではネット配信は行われないかもしれないが、日をまたぐイベント構成と建築会館の中庭空間はきっと変わらないだろう。
深夜、アクセスフリーでリッチな空間の中で熱く語る。
そんなイメージを開催するごとに浸透させ、強力な磁場を形成していってもらいたい、というのが自分の希望だ。
その磁場に巻き込まれた地方の建築学生が東京の展示ついでにArchi-TVで夜を明かす、というような状態が定番になれば、各地とつなぐ、という今回のテーマの一つがイベントの深層に組み込まれていくのではないかと思っている。

2010年4月13日火曜日

CHAOS*LOUNGE 2010


CHAOS*LOUNGE 2010 in 高橋コレクション日比谷 に4/11に行ってきました。

自分の中で色々とまとまっていませんが、記憶の鮮明なうちに感想を書いておきたいと思います。
実際に行かれていない方には少し分かりにくい内容となるかもしれませんので、レビューと言うより、いち個人の感想として読んでいただければと思います。
狙って行ったわけではないのですが、ちょうど15時からの「カオス*ラウンジ ミーティング――活動報告 」黒瀬陽平 藤城嘘 梅沢和木 助田徹臣 浅子佳英 濱野智史 藤村龍至 村上裕一 李明喜 というトークイベントも聞くことができました。
その上、藤村さんにくっついて打ち上げにも参加させていただけました。

まず、最初に僕が一番印象に残っている作品は梅沢和木さんの「ネオネオエクスデス☆嫁過ⅡDX」(画像はその一部を撮影)です。
トークイベントでも話に挙がっていたのだけど、梅沢さんの作品はメタキャラクター性がずば抜けていたと思う。「エターナルフォース画像コア」のときも感じたことですが、彼の作品はキャラクタ要素が一つ一つの色素(例えばつかさのリボンが黄色)となって描かれていると同時に、その色素一つ一つに「黄色のリボンはつかさ」といったキャラクタ性を同時に併せ持っている。その認識は同時であり、「黄色のリボンはつかさ」という認識と、「つかさのリボンが黄色」という認識は瞬時にループします。
そして、この作品は近づいてみてみると一つ一つの色素にそのループがあり、遠くに離れてみても全体にそのループが漠然と感じられる。視覚的にではなく認識レベルでのフラクタル性とでもいうもの?かもしれない。
作品内にn次的なネットワークの広がりが可視化されていた。


その一方、藤城嘘とポストポッパーズによる「非実在青こなた」はキャラクターこなたをアニメ雑誌の青っぽいページを色素としてくみ上げられた立体作品です。しかし「非実在青こなた」は引いて見てみると完全にこなたであり、寄って見ると、雑誌のページにしか見えない。
しかし、この作品や「つかさをつくろう!(再現)」の場合、こなた・つかさと言ったキャラクタを作るために、見知らぬ人同士がなぜか集まってきたというプロセスがあり、また違った意味があるのだと思うだけど、その事実が可視的に見えないと言う弱さがあった。
それこそが展覧会の切断という問題なのだろうけど。

うーん。ちょっと自分でもよく分からなくなってきた。
直感的過ぎて言語化できていない。
けれども、一番強く感じたのは先に書いた「認識レベルでのフラクタル性、作品内のn次的なネットワークの空間的広がり」。
このワードは自分的には結構しっくりきていて、その感覚を空間的に可視化していたことがカオスラウンジであるのかなと言う感想に至りました。
そして、僕が感じたような感覚が言語化されたときが、新しいコンセプトが生まれる時なのではないかと感じました。

非常に抽象的な文章になり、読みにくいかと思いますが、感想・コメントなどいただければ幸いです。

naoto ishizuka

2009年12月12日土曜日

しぜんとくらすけんちく展




横浜国立大学中央図書館情報ラウンジにて12月1日から4日間で行われていた「しぜんとくらすけんちく展」は、横浜国立大学の学部2年生の授業であるデザインスタジオⅡの第2課題「自然の中の居住単位」の成果物の展示会である。今回は2年生有志約10名の作品が展示されていた。展示会の様子・報告はY-PACer伊東のレポートをを参照していただきたい。
今回のレビューでは、作品の内容には触れずに「展示の形式」と「課題を展示する意味」の2点に絞って書きたいと思う。

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■この展示が生み出した「面白い状況」
「しぜんとくらすけんちく展」の展示の形式として特徴的なことは、模型を置くテーブルの面全てを白い紙で覆い、そこに模型とドローイング、そして多数のサインペンを置くということである。このようなかたちで展示することにより、来場者がその作品に対して感じたことを、すぐにその場に書き残すことが可能となり、またそのコメントに対するレスも自然発生的に書き残されていた。そしてポスターなどを含めた会場の雰囲気を徹底的にキャッチーに仕立て上げることで、コメントを書残しやすい空気を作り出すことに成功していた。書き残されたコメントも様々である。専門的な目線を持った意見から、率直な感想、つぶやき、野次など。いうなれば「ニコニコ動画的」な状況が、建築の課題を対象として現実空間において起こっていたと言える。
大学には様々な専攻の人達がいる。その人達がそれぞれの目線で作品に対してコメントやツッコミをいれ、またツッコミに対する反論を残す。そのような面白い状況を生み出すことに成功していた。

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■学生が課題を展示することの意味
建築の設計は、単なる創作活動でなく、敷地・用途・法律・環境・力学・歴史・人間・周辺住民・赤の他人etc…など様々なパラメータのなかから最適解を見つける作業であり、個々の美学や創造力は、最適解を見つけるに至る解法や時々の判断において発揮されると考えている。そして、学校の課題において決定的にに足りないのは「他人の意見」であると感じている。
学生が課題を展示することの意味は、自己表現でも記念でもやってやった感でもなく、足りない他人の意見を補うことにある。自分の作品に対して他人がどう感じるかを知ることにより、自分の中により多くの視点を獲得することができる。

展示会場を構成した彼らがニコニコ動画的展示空間を作り出したのは、他人の意見を渇望していたからであるのだと思う。彼らの目的はある程度達成されていたのではないだろうか。だからこそいろんな人達のコメントを、野次や批判も含めて、自分の中にしっかりと取り込んで欲しいと思う。

オギノタイガ

2009年11月29日日曜日

音楽映画第九番/安野太郎

作曲・撮影/安野太郎 演奏・撮影/16人のフィールドワーク参加者

ヨコハマ国際映像祭CREAM2009で上映された作曲家・安野太郎氏の映像作品である。いや、これは音楽作品である、というべきなのか?
11月28日に新港ピアで発表会という形でライブが行われた。映像祭という、各作家の作品が広い会場に分散的に展示されている中で、この作品をこういう上映形式で観れたことはとても幸運なことだった。

この作品を映像なしで説明することは実は難しい。なぜかというとこの作品がただの映像作品や音楽作品のワクに収まるものではないからである。

音楽映画第九番という作品について、僕自身の言葉で改めてどんな作品だったかを説明してみたい。

まず音楽映画という音楽は、ひとつの簡単なルールに従ってつくられている。それは演奏者が「映像に映るものを読み上げる」というルールである。

第九番では演奏者は16人おり、画面も16分割されている。奏者は画面内の自分に割り当てられた区画を担当する。スクリーンにはひとつの大きな映像が流れることもあれば16分割分の小さな映像が画面のあちこちに流れることもある。画面上には読み取り棒と作曲者が呼ぶ、CGでつくられた緑の棒が行き来する。奏者はその棒が通過するオブジェクトの名前を読み上げるというわけだ。


映画は海の映像から始まる。よく晴れた空の下、大きなコンテナ船がゆっくりと画面を横切る。そこに緑の読み取り棒が現れて一人の奏者がつぶやき始める。「ふね」「しろいコンテナ」「なみ」「ふねのかげ」というように。


そうしてひとりまたひとりと奏者の数が増えていき、いろいろな声のトーンやつぶやくスピード、声の大きさ等が入り交じるようになり、「映像」が「楽譜」のように機能し始める。(16人の奏者の年齢も性別もみなバラバラであり、当然声もみな違う。これが重要である)

作品の中盤までは映像の分割度合いや読み取り棒のスピードなど、音楽映画とはどんなものかいろいろなパターンが試されると同時に観客にシステムの説明をしていく感じで、それは音楽というよりは統制のとれたつぶやきや整然とした雑踏のざわめきのように聞こえる。

しかし大きな影の映像に4人の奏者が同時に「かーーげ」と発声することでそこから一気にメロディへとシフトしてゆく。それはまさに和音そのものであり、合唱ならば当たり前の奏法なのだが、観客はここで改めて映像から音楽が生まれることを知るのである。


少し強引かもしれないが、この作品を今建築界や思想界(の一部)で議論されているテーマに引きつけて考えたい。それはアーキテクチャとコンテンツという考え方である。

それぞれの語義についてはここでは割愛するが、この音楽映画第九番という作品での作曲家・安野太郎氏の役割は音楽映画の演奏方法というアーキテクチャの設計者であり、映像の恣意的な並べ替え(=音楽の楽譜を書く行為)によってコンテンツを作り出す作家でもある。

人間をアルゴリズミックに扱い、音楽という芸術作品を作り出す。それはいまtwitterの建築/思想クラスタでしきりに議論されているアーキテクチャ派/コンテンツ派を架橋する良い実例とも呼べるだろう。


人間をスキャナのように扱い、ルールにしたがって発声させるということは、文字で読むと非人間的な行為のようで、そんなものは芸術作品と呼べないと拒否反応を示す人もいるかもしれない。だが、実際に目の前で生身の人間が高らかに声を上げるライブを見るとそんな考えは吹き飛ぶ。

声を出すのが人間である以上、そこには声の違いはもちろんだが、オブジェクトの認識の違いも生じる。視覚情報を自分の知っている音声情報に変換するには個人の経験や知識が大いに影響する。横浜のインターコンチネンタルホテルを知らない人が読み取れば「しろいビル」になってしまうかもしれないし、ポニーを「ちいさいうま」と読み取る人がいるかもしれない。そこには個々の視点と認識の差という冗長性があり、それがこの作品に面白みを与えていると感じた。

実際にはかなりの練習を重ねているそうなので、そのリダンダンシーを安野氏がどこまで認めているのかは分からない。しかし情報のインプット側だけでなく、発声の方言によるイントネーションや声の高さ、大きさなどアウトプット側にも多様化する要素が無数に含まれている。

この作品では「視覚→脳→声帯」という一連の反応経路そのものが楽器であるといえるかもしれない。


都市とは数多くの多様な人々が同時に活動しているから都市なのである、ということをこの都市の映像をアルゴリズム化された人間によって再スキャンするという作品で改めて認識した。

都市の日常を映した映像からつぶやきが生まれ、そのつぶやきが和音になり、リズムを生み、メロディを生む。その音楽は見る人に可笑しみを誘い、何だかよくわからないが感動させる。僕たちはいったい何に感動しているのか、それは奏者ひとりひとりがただひたすらにルールを守っていること、それがゆえに生ずるズレやグルーブ感に「人間て面白いな、都市ってこう見たら面白いな」と気づくそのことなのかもしれない。

生みの苦しみは当然、大変だったと思うが、一観客として、これからの音楽映画と安野氏の創作活動に期待してしまう。都市の面白さを、人間の面白さを、新しく発見していくそのときにともに目撃者でありたいと思う。

yoichi koizumi

参考:安野太郎氏のブログhttp://taro.poino.net/blog/index.html

2009年9月9日水曜日

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009


会期:2009年7月26日(日)~9月13日(日)
開催地:越後妻有地域(新潟県十日町市、津南町)760k㎡
総合ディレクター:北川フラム

2000年から新潟県越後妻有地域で行われている国際芸術祭。
3年ごとに行われ今回が4回目の開催。
僕自身は2003年は数泊で見に行き、2006年はこへび隊という運営サポーターとして2週間強滞在、今年は見てまわった4日間+滞在数日である。
また、今回は姉が24番「うかのめ」という作品を出展しているので制作の裏舞台を知ることもできた。

それぞれの作品についてのコメントは色々あるけども、長くなるので割愛させていただき、芸術祭全体についての紹介と今後について述べたい思う。
そもそもこのトリエンナーレはアートによる地域活性化「越後妻有アートネックレス整備構想」(1996年)に端を発し、2000年からの4回のディレクターを一貫して北川フラム氏が勤めてきた。
過疎高齢化、農業の低迷、限界集落などの多くの問題を抱える地域ではあるが、当初現代美術を他人の土地に作っていくというこの芸術祭は猛反発にあった。しかし粘り強い話し合いと、2000年春頃に現れたサポーター「こへび隊」の活動により、次第に地域との共感・共同が生まれ第1回の開催となった。
回を重ねる度に参加集落・作品数・来場者数は増え続け、今回の作品数は300以上を数えている。
今年はまだ会期が終了していないが、おそらく前回よりかなり多くの来場者がいた印象を受けた。

このトリエンナーレは直接的には過疎高齢化や限界集落の問題を解決していないが、確かに地域の集落や住民に今まで知らなかった世界を提示し、交流を生み、活力を与えていると思う。
また、都市から訪れる鑑賞者に知らなかった地方都市の現状を伝え、その問題や魅力を知らせている。そして、両者の交流を生んでいる。
また、現代美術としても、日本ではまれに見る来場者数を誇っており、その鑑賞者の裾野を大きく広げている。

確かに多くの功績と実績を生んできたこのトリエンナーレだが、当然問題点も抱えている。
まず採算性(今回はある程度大丈夫そう)やアート自体の質の問題(メンテナンス含む)、来場者増加による駐車やごみのマナーの問題や、宿泊・食事・トイレなどのハードの問題、サポーター(こへび隊)が減り地元の住民の負担が大きくなっているという問題、などなど。
大規模化に伴い、地域に疲労も見られることも確かである。

しかし、やはり僕個人としては一連のトリエンナーレは成功をしてきており、クリエイティブシティー構想の日本での好例であると思う。
傍目から見ていても、関わっている人々は自分の地域に対する誇りや自信を得ている。

あとは、この事例においてどれだけ過疎高齢化や限界集落の問題に改善を示しながら継続してゆけるかである。
次第に地域に対して雇用の創出やお金が落ちる仕組みはできてきているし、実際トリエンナーレを期にこの地域に移住をした人間も知っている。

10年を越えて第5回目の2012年の開催が行えるか否か。
クリエイティブシティは(地方)都市を救えるのかが試されていると思う。

なお、35~37回の建築系ラジオでまた違った視点からこのトリエンナーレについて語られています。
「こたつ問題」とか結構興味深いです。

2009年8月25日火曜日

ARCHITECT JAPAN 2009 ARCHITECT 2.0

表参道のGYRE内ギャラリーEYE OF GYREにて8月30日まで行われている展覧会。キュレーターは藤村龍至氏。mashcomixによる戦後の日本建築史をメタに描いた3枚の巨大な建築マンガと、8組の建築家、アーティストによる作品展示

1.せんだいメディアテークコンペ応募案(古谷誠章)1995
2. 富弘美術館(ヨコミゾマコト)2005
3. W-PROJECT(日建設計)2009
4. GYRE(MVRDV+竹中工務店)2008
5. 朝日放送(隈研吾+NTT-F)2008
6. re: schematic (徳山知永)2009
7. 新スケープ(中央アーキ+樋口兼一)2007
8. Browin' in the Wind(伊庭野大輔+藤井亮介)2005

という構成。


作品を見ながら思ったことは、あぁ、これは藤村さんの展示だな、ということ。作品の丁寧な解説は全て藤村さんが書かれており、氏の提唱する批判的工学主義や超線形設計プロセスとリンクした形で作品を切り取っているのがよくわかる。氏は多くの書籍で魚の成長過程やビルディングKの設計過程の図が付いた文章を載せ、積極的にメディアを活用していたが、そこから更に発展させ、周りを巻き込んで自分の主張を強化している。このようにメディアに対してガンガンいくスタンスは非常に面白いと思う。

しかし、展示では藤村さんに誘導されてしまった感があり、各作品についてもう少し自分なりに噛み砕く必要があったかなと、帰宅後に気付いた。作品の中で一番面白かったのが日建設計の展示で、現物のファサードパーツが、ダイレクトに身体に有効性を伝えてくれた。これがあることで、模型やボードの見え方も違ってくる。大きなことでも身体に還元してみることで見えてくることがありそうだ。他の作品についてももっと別の視点が導入できたのではないか。自分の反省。

2009年8月4日火曜日

ヨコハマアパートメント/ON design

設計:ON design/西田司・中川エリカ
竣工:2009年
所在地:横浜市戸部
用途:集合住宅

僕たちもかつてお世話になった西田司さんの最新作、ヨコハマアパートメントを見に行った。
昨年11月にBankARTで行われた藤村龍至氏とのUrban commons展で1/10模型が展示されていたが、つい先日竣工(まだ少し内装や外構に工程は残っているが)し、イベントと展示を伴った内覧会が行われた。
横国出身者で結成された403architectureによる仮設資材インスタレーションと藤村氏を招いてのシンポジウムについての感想は割愛させて頂くとして、今回はこの建築について思ったことを書きたい。

この建物は野毛山動物園をこえたさらに先の古くからある住宅密集地の中にある。都市というドライな関係性よりももっと濃密な空気の流れる住宅地のなかに、隣家の軒先スレスレに真っ白いUFOが4本の脚をおろして着地したような不思議なたたずまいをしている。この建築の用途は4戸の集合住宅であるが、一番の特徴はなんといっても天高5mのピロティ部である。これは「才能ある若いクリエイターに活動の場所と住居を提供したい」という施主の熱意を受け、ON designがカタチにした結果現れて来たものだ。一階の共用部は半外部であるが、そこではアーティストの創作活動が行われるだけでなく、近所の人たちのコミュニティ活動などさまざまなことに使われる。まだ賃貸開始前だが早速大家さんによるヨガ教室が行われるようだ。
この空間でどんなことができるのか、それは事務所のスタッフでさえ手探りだ。今月から一ヶ月3人のスタッフがモニターとして入居し、使い方を模索していく予定だという。

前述のインスタレーションやシンポジウムなども、議論の内容こそ藤村さんがコントロールしようとしていたが、そもそもこの場所で行われること自体がとても面白い状況だった。なぜならここは「木造アパートの一階」でしかないからだ。
シンポジウムでは藤村さんが執拗にスタンスについて問うていたが、この建築はまさに西田さんのスタンスそのものを表している。「都市」よりもっと身近で濃密な「近所」へと開く。この建築がある場所は間違いなく横浜のローカルだが、おそらくメディアに乗って日本中へ問題提起していくだろう。それは即ち西田さんとON designの戦略でもある。

以前Y-PAC radioでインタビューしたとき、西田さんは「住宅はまちの中のなわばりである」とおっしゃった。住宅が個人のなわばりであるとすれば、この建築は4人の住民だけでなく、近所のすべての人々のなわばりであるとも見える。そうして「わたしのなわばり」だけでない、「わたしたちのなわばり」が増えて行ったとき、まちの姿は今よりもっと濃密で力強いものになっていくに違いない。