2009年6月27日土曜日

ヱヴァンゲリオン新劇場版:序


庵野秀明・総監督 スタジオカラー 2007年
社会現象となったアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』の新たなる劇場版。10年を経て新に作られるエヴァの意味とは何か。
エヴァンゲリオンは97年から多くの2次的な物語・言説・作品・商品を生み出し続けてきた。これは、制作を行ったGAINAXがもともと同人的な集団としての出自を持っていること、そして、自らが商品という形で公式な2次創作を積極的に行ってきたことも関係しているだろう。
エヴァはこの10年間のアニメやサブカルチャーなどの多くの分野に対して、大きな引用元としてのデータベースを提供してきた。エヴァンゲリオンがエポックメイキングであったのは、今のデーターベース消費社会のシンボルであったことも、その1要素である。
この新劇場版の制作が、単なる作品のリニューアルとなるのか、新たなオリジナルになりうるのか。
スタジオカラーの創設により自主制作へと戻ってきた庵野監督が、この時代において2次創作でないオリジナルを作りえるのか。データベース消費社会の今後の方向性が、この作品において問われているのではないだろうか。
『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』の公開を前にして、改めて見直してみようと思う。

2009年6月25日木曜日

ブッシュ

監督:オリバー・ストーン
主演:ジョシュ・ブローリン
2008年アメリカ映画

原題は「W.」。第43代アメリカ大統領、ジョージ・W・ブッシュのミドルネーム「W(テキサス訛りでダブヤ)」から取られている。
この映画はアメリカの9.11前後のブッシュ政権を断罪しようというのではなく、ブッシュJr.の人間そのものに焦点をあてた映画である。
Wは最終的にアメリカ大統領に2期当選こそしたが、その実態は「Mr.パーフェクト」パパブッシュに引け目を感じるファザコン息子。ハーバードにも親父のコネで入り、40過ぎまでろくに仕事も続かないというダメぶりである。

だけれども、この映画の主題は彼を笑い者にして、あの8年間はアメリカにとって失敗だったと忘れ去ることにあるのではないと感じた。大衆に愛される憎めない人柄を持ちながらも、意見のバラバラな閣僚達(パウエルやラムズフェルドやチェイニーなど)に振り回され、実父とすら理解しあえないその姿はむしろ哀れにさえ思える。

オバマ政権が誕生し、早くもブッシュは歴史上の人物として語られるのだなと思うと同時に、彼にとって9.11とその後の世界情勢は重荷過ぎたのかもしれないと思ってしまった。


しかし、超大国の最高権力者にそんな情けをかけてもしかたがなく、彼を選出したのは僕たちの作っていた時代の空気なのだ。

yoichi

2009年6月21日日曜日

神山健治の映画は撮ったことがない 映画を撮る方法・試論

神山健治・著 株式会社INFASパブリケーションズ 2009年

この本は神山健治が雑誌・STUDIO VOICEにて行っていた同名の連載に、その補足、著者と中島哲也、著者と押井守の対談を付け加えたものである。

神山健治は主にアニメーション作品を監督している。先のレビューで取り上げた「東のエデン」の他に、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」シリーズや「精霊の守り人」の監督を行っている。

著者は劇場で公開されるような所謂映画は撮ったことがないながらも、20分という短いフォーマットのアニメを80本近く監督してきた。結果として見えてきた映画とは何かということ。その本質と方法論についてこの本は述べている。

よく映画監督と建築家は似ていると称されることがある。また映画と建築も似ていると言われる。この本が一般的な映画監督像について語っているかどうかは議論の余地はあるであろうが、確かに似ているところがあると感じた。LESSON_26の『映画監督とは…』において神山健治はエンターテイメント映画の正体と、監督の個性の獲得にかんするおおぐくりな答えとして6つの要素を挙げている。その5番目を引用すると「映画は総合芸術だといわれるが、総合的であるがゆえに合議的であってはならない。“誰か”の独善的な思想に基づき、コントロールされていなければならない。」(p.80より)とある。
建築家とはまさにそういう存在なのではないかと思う。もちろん社会性やクライアントの要求、様々な条件を建築家が飲み込んで設計を行うように、監督もその能力を兼ね備えていなければならない。しかし、その設計において、要素がいるいらないの判断をし得るのは、建築家であり監督しかありえないのである。

もちろん映画と建築は別のものであり、技術体系はまったく異なる。しかし、あるものを作っていく、しかも多くの人の分業により作っていき、最終的に社会に公開するという部分によって、映画と映画監督はメタファーとして学んでいくべきことは多いと改めて感じた。

多くの参考作品も取り上げられていて、映画の勉強にもなる一冊。
アニメばかりでなく映画も見て行きたいと思わされた。

東のエデン


「東のエデン」は2009年4月9日からフジテレビ系列で11話が放送されたTVアニメである。原作・脚本・監督は神山健治で、制作はプロダクションI.G。キャラクター原案を羽海野チカが担当した。
ストーリーをものすごく簡単に説明すると、主人公は100億円の電子マネーが入った携帯を突然渡され、日本を救うためのゲームに強制参加させられる。プレーヤーはセレソンと呼ばれ、同じく強制的に参加させられたものたちが他に11名いる。100億を使い切ってしまうか、他のセレソンが日本を救ってしまったらゲームオーバーである。
Y-PACラジオVOL.5の中で出てきたのは、作中の東のエデンという携帯サイトについてである。画像認識機能と、その画像に対してのWiki的なタグ付けというサービスが東のエデンのサイトでは行われいる。このシステムはウィキペディアなどのWikiシステム、ニコニコ動画などのタグのシステムに似ている。
このアニメを見ていて思い出したのが、「思想地図 Vol.2 特集・ジェネレーション」の中に収録されている『ゲームプレイ・ワーキング―新しい労働観とパラレル・ワールドの誕生』という鈴木健の文章である。コンピューターの歴史のはじめ200年間は人間が演算素子であったヒューマンコンピューティングの時代があった。現在では問題解決や冗長性を含む問題に対しては人間の並列・集合知が機械的コンピューターより役に立つ。そして、そのような集合知をゲームをやっているような感覚で労働に変換するのがゲームプレイワーキングである、というのがその文章の僕なりの要約である。人間の並列接続によるコンピューター化である。
東のエデンやWikiシステムが行っているのはまさにこれである。しかし、このことがもたらす弊害として、一人ひとりは自分が行った書き込み・投稿・コメント・作業などがどういう結果をもたらしているのかを認識できないことが多い。
東のエデンのラストにおいて、2万人のニートは自分たちの行為(書き込み)がどういう目的に対して行われているかを認識した上で行為を行う。
行為の持つ目的性や達成感の回復を2万人のニートが感じているのかは描かれてはいない。
そして、ニートたちが行った行為が労働と呼びうるのかは分からない。
しかし、神山監督はニートや形骸化する就職活動、強制的な肉体労働(ドバイにて)のエピソードを交えながら、働くということ、労働ということの意味をこの作品で私たちに対して問うているような気がする。

2009年6月10日水曜日

3年前期第1課題 三ツ沢メディアセンター展

横浜国立大学中央図書館の情報ラウンジにて2009年6月8日から11日に行われていた展示が、「三ツ沢メディアセンター展」である。
この展示は横浜国大建築学コースの3年生の有志が、設計課題である三ツ沢メディアセンターを一般向けに展示したものである。
基本的に、プレゼンボード1枚と模型から展示は構成されている。

自分が3年生のときの「三ツ沢地区センター」とは若干課題内容は異なるため単純に比較はできないが、全体に作品のレベルが高いように感じた。
模型が内部の家具などに頼らず、しっかりと建築自体で見せている作品も多いようで、そのあたりがこの学年の特徴かもしれない。

ただ、惜しむべきこととして、ボードの構成と会場のデザインがあげられる。
授業での発表をすべて見たわけではないのだが、展示に向けて構成しなおされたボードが少ないように思う。特に、一般の人が見たときに分かりやすいよう構成したものが、もっとあってもよいのではないかと思う。
会場については、展示の配置自体はそんなに悪くないのだが、ポスターやイントロダクションのボードが目立たない、あるいはないことがもったいない。私は何の展示か知っているから分かるけども、一般の人が見た際に、これが何の展示なのかが皆目分からないのである。
また、この課題では事前にグループでメディアセンターについてのサーベイを行っているはずなので、その辺が展示されているととっつきやすいのかとも思った。

3年生は前年の最終課題でも、展示を行っていて、今回は2度目である。
前回よりはいい展示になっていると思う。
今後の課題も、集合住宅・個人住宅と続き一般に向けて展示しやすいものだと思うので、是非続けて行って欲しい。