「東のエデン」は2009年4月9日からフジテレビ系列で11話が放送されたTVアニメである。原作・脚本・監督は神山健治で、制作はプロダクションI.G。キャラクター原案を羽海野チカが担当した。
ストーリーをものすごく簡単に説明すると、主人公は100億円の電子マネーが入った携帯を突然渡され、日本を救うためのゲームに強制参加させられる。プレーヤーはセレソンと呼ばれ、同じく強制的に参加させられたものたちが他に11名いる。100億を使い切ってしまうか、他のセレソンが日本を救ってしまったらゲームオーバーである。
Y-PACラジオVOL.5の中で出てきたのは、作中の東のエデンという携帯サイトについてである。画像認識機能と、その画像に対してのWiki的なタグ付けというサービスが東のエデンのサイトでは行われいる。このシステムはウィキペディアなどのWikiシステム、ニコニコ動画などのタグのシステムに似ている。
このアニメを見ていて思い出したのが、「思想地図 Vol.2 特集・ジェネレーション」の中に収録されている『ゲームプレイ・ワーキング―新しい労働観とパラレル・ワールドの誕生』という鈴木健の文章である。コンピューターの歴史のはじめ200年間は人間が演算素子であったヒューマンコンピューティングの時代があった。現在では問題解決や冗長性を含む問題に対しては人間の並列・集合知が機械的コンピューターより役に立つ。そして、そのような集合知をゲームをやっているような感覚で労働に変換するのがゲームプレイワーキングである、というのがその文章の僕なりの要約である。人間の並列接続によるコンピューター化である。
東のエデンやWikiシステムが行っているのはまさにこれである。しかし、このことがもたらす弊害として、一人ひとりは自分が行った書き込み・投稿・コメント・作業などがどういう結果をもたらしているのかを認識できないことが多い。
東のエデンのラストにおいて、2万人のニートは自分たちの行為(書き込み)がどういう目的に対して行われているかを認識した上で行為を行う。
行為の持つ目的性や達成感の回復を2万人のニートが感じているのかは描かれてはいない。
そして、ニートたちが行った行為が労働と呼びうるのかは分からない。
しかし、神山監督はニートや形骸化する就職活動、強制的な肉体労働(ドバイにて)のエピソードを交えながら、働くということ、労働ということの意味をこの作品で私たちに対して問うているような気がする。
俺もレビュー書こうと思ったんだけど先を越されてしまった。
返信削除まあまだここまでの考察はないからいいか。
最後のニートの利用はちょっとわかりやすすぎるかもしれないけど、カミケンが集合知というものに期待しているように思えてよかった。
映画版(2本あるのか!)にも期待。
カミケンは集合知そのものというより、集合知を形成する個々がどういうモチベーションによってその形成に関わってくるのかということに関心があるんじゃないかと思う。
返信削除たとえばウィキペディアンたちは何を動機としてウィキペディアの編集をし、タグ職人は何を動機としてタグをつけていくのかということ。それが労働とか働くということと結びつくのかどうかが、ニートという象徴によって問われているんだろうと思う。
個別の存在が何を動機としてスタンドアローンコンプレックスを形成するのか。
集合知をめぐる問題はそこにシフトするような気がする。