2009年12月12日土曜日
しぜんとくらすけんちく展
横浜国立大学中央図書館情報ラウンジにて12月1日から4日間で行われていた「しぜんとくらすけんちく展」は、横浜国立大学の学部2年生の授業であるデザインスタジオⅡの第2課題「自然の中の居住単位」の成果物の展示会である。今回は2年生有志約10名の作品が展示されていた。展示会の様子・報告はY-PACer伊東のレポートをを参照していただきたい。
今回のレビューでは、作品の内容には触れずに「展示の形式」と「課題を展示する意味」の2点に絞って書きたいと思う。
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■この展示が生み出した「面白い状況」
「しぜんとくらすけんちく展」の展示の形式として特徴的なことは、模型を置くテーブルの面全てを白い紙で覆い、そこに模型とドローイング、そして多数のサインペンを置くということである。このようなかたちで展示することにより、来場者がその作品に対して感じたことを、すぐにその場に書き残すことが可能となり、またそのコメントに対するレスも自然発生的に書き残されていた。そしてポスターなどを含めた会場の雰囲気を徹底的にキャッチーに仕立て上げることで、コメントを書残しやすい空気を作り出すことに成功していた。書き残されたコメントも様々である。専門的な目線を持った意見から、率直な感想、つぶやき、野次など。いうなれば「ニコニコ動画的」な状況が、建築の課題を対象として現実空間において起こっていたと言える。
大学には様々な専攻の人達がいる。その人達がそれぞれの目線で作品に対してコメントやツッコミをいれ、またツッコミに対する反論を残す。そのような面白い状況を生み出すことに成功していた。
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■学生が課題を展示することの意味
建築の設計は、単なる創作活動でなく、敷地・用途・法律・環境・力学・歴史・人間・周辺住民・赤の他人etc…など様々なパラメータのなかから最適解を見つける作業であり、個々の美学や創造力は、最適解を見つけるに至る解法や時々の判断において発揮されると考えている。そして、学校の課題において決定的にに足りないのは「他人の意見」であると感じている。
学生が課題を展示することの意味は、自己表現でも記念でもやってやった感でもなく、足りない他人の意見を補うことにある。自分の作品に対して他人がどう感じるかを知ることにより、自分の中により多くの視点を獲得することができる。
展示会場を構成した彼らがニコニコ動画的展示空間を作り出したのは、他人の意見を渇望していたからであるのだと思う。彼らの目的はある程度達成されていたのではないだろうか。だからこそいろんな人達のコメントを、野次や批判も含めて、自分の中にしっかりと取り込んで欲しいと思う。
オギノタイガ
2009年11月29日日曜日
音楽映画第九番/安野太郎
ヨコハマ国際映像祭CREAM2009で上映された作曲家・安野太郎氏の映像作品である。いや、これは音楽作品である、というべきなのか?
11月28日に新港ピアで発表会という形でライブが行われた。映像祭という、各作家の作品が広い会場に分散的に展示されている中で、この作品をこういう上映形式で観れたことはとても幸運なことだった。
音楽映画第九番という作品について、僕自身の言葉で改めてどんな作品だったかを説明してみたい。
まず音楽映画という音楽は、ひとつの簡単なルールに従ってつくられている。それは演奏者が「映像に映るものを読み上げる」というルールである。
第九番では演奏者は16人おり、画面も16分割されている。奏者は画面内の自分に割り当てられた区画を担当する。スクリーンにはひとつの大きな映像が流れることもあれば16分割分の小さな映像が画面のあちこちに流れることもある。画面上には読み取り棒と作曲者が呼ぶ、CGでつくられた緑の棒が行き来する。奏者はその棒が通過するオブジェクトの名前を読み上げるというわけだ。
映画は海の映像から始まる。よく晴れた空の下、大きなコンテナ船がゆっくりと画面を横切る。そこに緑の読み取り棒が現れて一人の奏者がつぶやき始める。「ふね」「しろいコンテナ」「なみ」「ふねのかげ」というように。
そうしてひとりまたひとりと奏者の数が増えていき、いろいろな声のトーンやつぶやくスピード、声の大きさ等が入り交じるようになり、「映像」が「楽譜」のように機能し始める。(16人の奏者の年齢も性別もみなバラバラであり、当然声もみな違う。これが重要である)
作品の中盤までは映像の分割度合いや読み取り棒のスピードなど、音楽映画とはどんなものかいろいろなパターンが試されると同時に観客にシステムの説明をしていく感じで、それは音楽というよりは統制のとれたつぶやきや整然とした雑踏のざわめきのように聞こえる。
しかし大きな影の映像に4人の奏者が同時に「かーーげ」と発声することでそこから一気にメロディへとシフトしてゆく。それはまさに和音そのものであり、合唱ならば当たり前の奏法なのだが、観客はここで改めて映像から音楽が生まれることを知るのである。
少し強引かもしれないが、この作品を今建築界や思想界(の一部)で議論されているテーマに引きつけて考えたい。それはアーキテクチャとコンテンツという考え方である。
それぞれの語義についてはここでは割愛するが、この音楽映画第九番という作品での作曲家・安野太郎氏の役割は音楽映画の演奏方法というアーキテクチャの設計者であり、映像の恣意的な並べ替え(=音楽の楽譜を書く行為)によってコンテンツを作り出す作家でもある。
人間をアルゴリズミックに扱い、音楽という芸術作品を作り出す。それはいまtwitterの建築/思想クラスタでしきりに議論されているアーキテクチャ派/コンテンツ派を架橋する良い実例とも呼べるだろう。
人間をスキャナのように扱い、ルールにしたがって発声させるということは、文字で読むと非人間的な行為のようで、そんなものは芸術作品と呼べないと拒否反応を示す人もいるかもしれない。だが、実際に目の前で生身の人間が高らかに声を上げるライブを見るとそんな考えは吹き飛ぶ。
声を出すのが人間である以上、そこには声の違いはもちろんだが、オブジェクトの認識の違いも生じる。視覚情報を自分の知っている音声情報に変換するには個人の経験や知識が大いに影響する。横浜のインターコンチネンタルホテルを知らない人が読み取れば「しろいビル」になってしまうかもしれないし、ポニーを「ちいさいうま」と読み取る人がいるかもしれない。そこには個々の視点と認識の差という冗長性があり、それがこの作品に面白みを与えていると感じた。
実際にはかなりの練習を重ねているそうなので、そのリダンダンシーを安野氏がどこまで認めているのかは分からない。しかし情報のインプット側だけでなく、発声の方言によるイントネーションや声の高さ、大きさなどアウトプット側にも多様化する要素が無数に含まれている。
この作品では「視覚→脳→声帯」という一連の反応経路そのものが楽器であるといえるかもしれない。
2009年9月9日水曜日
大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009
開催地:越後妻有地域(新潟県十日町市、津南町)760k㎡
総合ディレクター:北川フラム
僕自身は2003年は数泊で見に行き、2006年はこへび隊という運営サポーターとして2週間強滞在、今年は見てまわった4日間+滞在数日である。
また、今回は姉が24番「うかのめ」という作品を出展しているので制作の裏舞台を知ることもできた。
それぞれの作品についてのコメントは色々あるけども、長くなるので割愛させていただき、芸術祭全体についての紹介と今後について述べたい思う。
そもそもこのトリエンナーレはアートによる地域活性化「越後妻有アートネックレス整備構想」(1996年)に端を発し、2000年からの4回のディレクターを一貫して北川フラム氏が勤めてきた。
過疎高齢化、農業の低迷、限界集落などの多くの問題を抱える地域ではあるが、当初現代美術を他人の土地に作っていくというこの芸術祭は猛反発にあった。しかし粘り強い話し合いと、2000年春頃に現れたサポーター「こへび隊」の活動により、次第に地域との共感・共同が生まれ第1回の開催となった。
回を重ねる度に参加集落・作品数・来場者数は増え続け、今回の作品数は300以上を数えている。
今年はまだ会期が終了していないが、おそらく前回よりかなり多くの来場者がいた印象を受けた。
このトリエンナーレは直接的には過疎高齢化や限界集落の問題を解決していないが、確かに地域の集落や住民に今まで知らなかった世界を提示し、交流を生み、活力を与えていると思う。
また、都市から訪れる鑑賞者に知らなかった地方都市の現状を伝え、その問題や魅力を知らせている。そして、両者の交流を生んでいる。
また、現代美術としても、日本ではまれに見る来場者数を誇っており、その鑑賞者の裾野を大きく広げている。
確かに多くの功績と実績を生んできたこのトリエンナーレだが、当然問題点も抱えている。
まず採算性(今回はある程度大丈夫そう)やアート自体の質の問題(メンテナンス含む)、来場者増加による駐車やごみのマナーの問題や、宿泊・食事・トイレなどのハードの問題、サポーター(こへび隊)が減り地元の住民の負担が大きくなっているという問題、などなど。
大規模化に伴い、地域に疲労も見られることも確かである。
しかし、やはり僕個人としては一連のトリエンナーレは成功をしてきており、クリエイティブシティー構想の日本での好例であると思う。
傍目から見ていても、関わっている人々は自分の地域に対する誇りや自信を得ている。
あとは、この事例においてどれだけ過疎高齢化や限界集落の問題に改善を示しながら継続してゆけるかである。
次第に地域に対して雇用の創出やお金が落ちる仕組みはできてきているし、実際トリエンナーレを期にこの地域に移住をした人間も知っている。
10年を越えて第5回目の2012年の開催が行えるか否か。
クリエイティブシティは(地方)都市を救えるのかが試されていると思う。
なお、35~37回の建築系ラジオでまた違った視点からこのトリエンナーレについて語られています。
「こたつ問題」とか結構興味深いです。
2009年8月25日火曜日
ARCHITECT JAPAN 2009 ARCHITECT 2.0
1.せんだいメディアテークコンペ応募案(古谷誠章)1995
2. 富弘美術館(ヨコミゾマコト)2005
3. W-PROJECT(日建設計)2009
4. GYRE(MVRDV+竹中工務店)2008
5. 朝日放送(隈研吾+NTT-F)2008
6. re: schematic (徳山知永)2009
7. 新スケープ(中央アーキ+樋口兼一)2007
8. Browin' in the Wind(伊庭野大輔+藤井亮介)2005
という構成。
作品を見ながら思ったことは、あぁ、これは藤村さんの展示だな、ということ。作品の丁寧な解説は全て藤村さんが書かれており、氏の提唱する批判的工学主義や超線形設計プロセスとリンクした形で作品を切り取っているのがよくわかる。氏は多くの書籍で魚の成長過程やビルディングKの設計過程の図が付いた文章を載せ、積極的にメディアを活用していたが、そこから更に発展させ、周りを巻き込んで自分の主張を強化している。このようにメディアに対してガンガンいくスタンスは非常に面白いと思う。
しかし、展示では藤村さんに誘導されてしまった感があり、各作品についてもう少し自分なりに噛み砕く必要があったかなと、帰宅後に気付いた。作品の中で一番面白かったのが日建設計の展示で、現物のファサードパーツが、ダイレクトに身体に有効性を伝えてくれた。これがあることで、模型やボードの見え方も違ってくる。大きなことでも身体に還元してみることで見えてくることがありそうだ。他の作品についてももっと別の視点が導入できたのではないか。自分の反省。
2009年8月4日火曜日
ヨコハマアパートメント/ON design
2009年7月1日水曜日
ヱヴァンゲリオン新劇場版:破
2009年6月27日土曜日
ヱヴァンゲリオン新劇場版:序
2009年6月25日木曜日
ブッシュ
2009年6月21日日曜日
神山健治の映画は撮ったことがない 映画を撮る方法・試論
この本は神山健治が雑誌・STUDIO VOICEにて行っていた同名の連載に、その補足、著者と中島哲也、著者と押井守の対談を付け加えたものである。
神山健治は主にアニメーション作品を監督している。先のレビューで取り上げた「東のエデン」の他に、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」シリーズや「精霊の守り人」の監督を行っている。
著者は劇場で公開されるような所謂映画は撮ったことがないながらも、20分という短いフォーマットのアニメを80本近く監督してきた。結果として見えてきた映画とは何かということ。その本質と方法論についてこの本は述べている。
よく映画監督と建築家は似ていると称されることがある。また映画と建築も似ていると言われる。この本が一般的な映画監督像について語っているかどうかは議論の余地はあるであろうが、確かに似ているところがあると感じた。LESSON_26の『映画監督とは…』において神山健治はエンターテイメント映画の正体と、監督の個性の獲得にかんするおおぐくりな答えとして6つの要素を挙げている。その5番目を引用すると「映画は総合芸術だといわれるが、総合的であるがゆえに合議的であってはならない。“誰か”の独善的な思想に基づき、コントロールされていなければならない。」(p.80より)とある。
建築家とはまさにそういう存在なのではないかと思う。もちろん社会性やクライアントの要求、様々な条件を建築家が飲み込んで設計を行うように、監督もその能力を兼ね備えていなければならない。しかし、その設計において、要素がいるいらないの判断をし得るのは、建築家であり監督しかありえないのである。
もちろん映画と建築は別のものであり、技術体系はまったく異なる。しかし、あるものを作っていく、しかも多くの人の分業により作っていき、最終的に社会に公開するという部分によって、映画と映画監督はメタファーとして学んでいくべきことは多いと改めて感じた。
多くの参考作品も取り上げられていて、映画の勉強にもなる一冊。
アニメばかりでなく映画も見て行きたいと思わされた。
東のエデン
2009年6月10日水曜日
3年前期第1課題 三ツ沢メディアセンター展
この展示は横浜国大建築学コースの3年生の有志が、設計課題である三ツ沢メディアセンターを一般向けに展示したものである。
基本的に、プレゼンボード1枚と模型から展示は構成されている。
自分が3年生のときの「三ツ沢地区センター」とは若干課題内容は異なるため単純に比較はできないが、全体に作品のレベルが高いように感じた。
模型が内部の家具などに頼らず、しっかりと建築自体で見せている作品も多いようで、そのあたりがこの学年の特徴かもしれない。
ただ、惜しむべきこととして、ボードの構成と会場のデザインがあげられる。
授業での発表をすべて見たわけではないのだが、展示に向けて構成しなおされたボードが少ないように思う。特に、一般の人が見たときに分かりやすいよう構成したものが、もっとあってもよいのではないかと思う。
会場については、展示の配置自体はそんなに悪くないのだが、ポスターやイントロダクションのボードが目立たない、あるいはないことがもったいない。私は何の展示か知っているから分かるけども、一般の人が見た際に、これが何の展示なのかが皆目分からないのである。
また、この課題では事前にグループでメディアセンターについてのサーベイを行っているはずなので、その辺が展示されているととっつきやすいのかとも思った。
3年生は前年の最終課題でも、展示を行っていて、今回は2度目である。
前回よりはいい展示になっていると思う。
今後の課題も、集合住宅・個人住宅と続き一般に向けて展示しやすいものだと思うので、是非続けて行って欲しい。
2009年5月7日木曜日
Stars of CCTV/Hard-FI
ロンドン出身のロックバンドHard-FIのデビュー作。
彼らはワーキングクラスの出身で、メッセージ性の強い歌詞を書くところからもThe Clashと関連付けられて紹介されることの多いバンドでもある。
昔のロンドンパンクを髣髴とさせる荒削りの楽曲から、現代風にスタイリッシュにまとめられた楽曲まで、以外にも幅は狭くない。こういった点もクラッシュ譲りといえるのかもしれない。
近年、RadioheadやColdplayに代表されるようなインテリ風のバンドが幅を利かせるブリティッシュロックシーンの中にあって、楽でないワーキングクラスの日々を時に悲しく、時にひょうきんに切り取るというブリティッシュロックの原点のような姿勢を持つ彼らは少し異端にも感じられる。
きっと、まだピストルズやクラッシュが叫んだ理不尽は30年たっても消えていないのだ。そして、それがなくなる日は来ないのかもしれない。
寂しく響く鍵盤ハーモニカのチープな音に乗ってそんなことをぼんやり思い浮かべてしまう。
サッカーやロックといった”持たざる者の文化”であったものが、次第に世界を包むカルチャーへと発展していった過程には、きっと彼らが持つような圧倒的な生気と貪欲さが不可欠だったのだとも思う。
ともすれば歴史のメインラインから簡単にこぼれ落ちてしまうような大衆文化に対する視点を常に失いたくないとぼんやりと感じる。
2009年4月4日土曜日
グラン・ヴァカンス 廃園の天使〈1〉 /飛浩隆
飛浩隆・著 早川書房刊 2002年
最近読んで面白かったSF小説。あらすじ↓
ネットワークのどこかに存在する、仮想リ ゾート“数値海岸”の一区画“夏の区界”。南欧の港町を模したそこでは、人間の訪問が途絶えてから1000年もの あいだ、取り残されたAIたちが、同じ夏の一日をくりかえしていた。だが、「永遠に続く夏休み」は突如として終焉のときを迎える。謎のプログラム の大群が、街のすべてを無化しはじめたのである。こうして、わずかに生き残ったAIたちの、絶望にみちた一夜の攻防戦がはじまる。
この物語 の舞台である夏の区画は、陽光の下に輝くのどかな港町であり、そこに登場するAI達は、あたかも人間のようだ。
しかし、物語が進み世界が崩壊していくのに 合わせ、“夏の区画”の本当の姿が、視覚情報だけでなく、AI達の関係や感情までもが綿密にデザインされ、それが歯車のように噛み合って成立していた世界 の姿が浮かびあがってくる。
仮想空間、そこではデザインの領域が物質世界に比べはるかに拡大している。
もし現実に高性能の仮想空間が誕生したとしたら、どのように建築家はかかわっていくのだろうか。
読み終わった後はそういうことをぼんやりと考えていた。
夏 の区画の構造は明らかにされるが、物語の進行によって生じた多くの謎はこのシリーズの次巻以降へ持ち越される。
現在、2巻目となる「ラギッド・ガール」ま でが発売されており、こちらは現実世界、数値海岸の双方を舞台とした短編集となっている。
仮想現実の仕組みや仮想空間の現実世界での位置づけ等が語られ、 よりSF的な側面の強い作品で、こちらも刺激的で面白い。
しかしまだ完結しておらず、次巻の発売が非常に待ち遠しい。
2009年3月27日金曜日
2009年3月19日木曜日
ノルウェイの森/村上春樹
旅行中に読み始めて読み終わった。読んだのは文庫版のほう。
ストーリーは「僕」とその周りのごく少数の人々の出来事をつづったもの。
主人公を含めた登場人物の多くが何かしらの欠陥を抱えている。
僕の視点から語られる淡々とした物語。
主人公が様々な喪失と再生を繰り返す。
私が読んで得られた感想は、人は不完全で一人では生きられないというシンプルなこと。
常に不完全な自分に喪失感を感じながら生き、他人と補完しながら生きているということ。
村上春樹はまだそんなに多く読んだことがないけれども、読後感が独特。
読み終わったときの達成感のようなものはない。
読んでいるときは、読んでいることが自然になる。
そして、読み終えてからも、特に読み直したいと思わない。
でも、また読み出したとしたら、それはすごく自然に読めるのだと思う。
息をするように読める作品。
2009年2月8日日曜日
前回Y‐PAC写真講評会
ストリートに対しての定義を各々の中にあるものでそれを写真にするように集める
その事によりストリートに対する多面的な見方をメンバーで共有できれば、と思い今回のセレクションに参加した
今回の中に見受けられた「street」は
左右を商業などの要素で飾られた壁面的なもので囲われた構成の、人の通る場所。
個人の段階を超える雑多な一面を含む空間。
人が流れること、またその人によって作られる場所。
といったようなものが挙がっていた
大半のものは写真から上の様な定義を明確に読み取ることは難しいと思ったが説明を聞いて「なるほど。」と思う
しかし写真だけで感じることができるのは少なかった
どうやらその伝わり方には写真の撮り方に差異があるようだ
写真一枚一枚を撮る時の態度というか心構えというか
大別して下の様に大別できたと思う
何気なく撮るか
記録として撮るか
伝えるために撮るか
これらは性質として次のように異なる
無意識的に撮ること=写真を撮る際に後で見るとき、誰が見るか、何を残すか等に関しての配慮を全く行わないものであり、読み取り幅が広い。
記録として撮る=残すものは全体的・具体的なものであり、撮った本人が後で見返すためのもの。
伝えるために撮る=残すものはその時によって異なり、伝える対象者が存在するため写るものが限定・抽象的になる。
あくまで傾向として思ったことだが
そうした上で今回のstreetに関しては何気・記録的なものが多かったように思う
様々なものを写真にした場合に
「これはstreetとしても読み取れるのではないか」
という後解釈によるものが多く「steet」としての作品としては意識が低かったのではないだろうか
まだまだ伸びしろが多く残っていることを痛感した
カメラを買う以前は意識もしなかったことだが、もしかしたらカメラを買う以前の問題ではないだろうか
写真としての撮り方で見え方によって大きく読み取り方も異なってくることを強く感じた
2009年2月1日日曜日
アーキテクチャと思考の場所
浅田彰+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司+東浩紀(司会)の6名による討論。
趣旨は、建築、社会設計、コンピュータシステムの3つの意味を併せ持つ「アーキテクチャ」というものについて、各分野の違いや類似性について考えながら、その現状と未来について考えるというもの。
濱野さんは、2000年以降に台頭してきたウェブサービスを「アーキテクチャ」の面から考察する自書『アーキテクチャの生態系』をまとめる形でプレゼンを行った。
その中で、建築物と比較する形で、ウェブのアーキテクチャには物理条件というものが存在せず、建築物の設計で必要となる「切断」、つまり物理限界がないということを繰り返し主張した。
宇野さんは、社会学サイドの「アーキテクチャ」についての最近の言論を簡単に整理した後、その問題点などを指摘した。
その中で僕が共感した点をあげると、「アーキテクチャ」を議論するうえで、その上に成立しているコミュニティのレベルの議論もまた同等の重要さがあるという点である。メタな議論が成立するのは同時にベタな議論も重要であるということである。
フリーディスカッションでは宇野・濱野・東の若い世代と、浅田・磯崎・宮台のベテラン世代との間の現在の社会状況について認識の差が目立った。
浅田・宮台は90年代に情報革命が起きたとはいえ、社会状況は変わっておらず、社会学の問題もそんなに変わってはいないと言う。
それに対し、濱野・東は社会学の状況が変わっていないことに同意しつ、変わっていなことこそ問題であり、新しく生まれた技術や思考の論理からその状況を打破すべきだと主張した。
前半は認識の差について、宮台VS東の様相を呈した。
ここで、磯崎さんの存在が効いたと思う。
磯崎さんは、ウェブに対する事前的な認識がないにも拘らず、議論の方向性をきわめて明確に示したと思う。
建築においては「切断」を伴うことで、メタフィジカルな「理論」をフィジカルな「建築」に転換するが、バーチャルにおいて「切断」を伴わないならば、それはどのようにリアルやフィジカルに対して影響を持つのかと問う。
そして、「切断」を伴わない「アーキテクチャ」が良い結果をもたらすことができるならば、アーキテクトはもはや不要であると述べた。
このシンポジウムで話されるべきことはこの点であったと思う。
メタな議論やバーチャルな構造がリアルな社会や生活にどう影響するのか、あるいはどう設計を行うことでより良いものとなるのか、その設計は建築や社会設計の方法とどう同じで、どう違うのか。
僕が聞き終えて思ったのは、バーチャルなウェブサービスにもリアルな建築にも「切断」は存在するということである。建築が物理条件により「切断」を伴うのは当然であるが、バーチャルにも物理条件は存在する。
ウェブはインターフェースの性能以上のことはできないし、無限に思えるサーバー容量や情報量も、時間とお金を考えれば、有限である。
むしろ、ウェブは設計者に「切断」を迫る頻度が高い。しかしその為「切断」に対する責任とリスクとコストが、建築に対して軽く、社会設計に対してはさらに軽い。
そのことが、情報技術の恐るべき進化スピードを与えているのであり、社会が驚くほど変わっていない原因であるのではないだろうか。
また、ウェブ上でのコミュニケーションや各種の行為も、僕にとってはフィジカルな行為である。
優れた建築が人にさまざまな経験を与えるのと同じく優れたウェブサービスはさまざまな経験を人にそれを与える。
そこにはバーチャルもリアルもない。
僕としては、今回のシンポジウムで気になっていたコンピュータ・社会学・建築が上手く整理でき、大成功だったと思う。
このシリーズのシンポジウムはぜひ続けて欲しい。
2009年1月7日水曜日
半島を出よ/村上龍
村上龍・著 幻冬舎刊 2005年
2011年の日本を舞台とした村上龍の長編小説である。
この時代の日本は政治・経済ともに破綻し、国際社会からも孤立していた。そんななか、北朝鮮の特殊戦部隊の精鋭9名が秘密裏に福岡に上陸し、プロ野球の試合が行われている福岡ドームを占拠、その後北朝鮮からの本隊と合流し、福岡の分離独立を目指して行動する。
著者・村上龍の膨大な量のリサーチと数十人に及ぶという脱北者へのインタビューによって支えられたリアリティに、とにかく引き込まれる。
しかし、この作品は現代の都市の弱点を露呈し、危機管理意識
の薄弱な我々に対する警句でもある。
たった9名で制圧でき、満員の観客がそのまま人質になる福岡ドーム。
病院を背にすることで大規模攻撃ができないようにさせる野営地の広場。
特殊戦部隊の本拠地にもなり、地下駐車場が重犯罪人の監獄にもなる超高層リゾートホテル。
市民の憩いの場として開かれているが故に最悪の戦場となる大濠公園。
そしてこの福岡占拠という大事件に終止符を打つ最大の破壊兵器もまた、建築である。
これは村上龍による現代都市・建築論である。
yoichi